リュックが開きっぱなしの人を見ると

私はObsidianはいいなぁと思う

(この記事はObsidian称賛記事です)

リュックが開きっぱなしの人

を見かけたら、みなさんは何を考えるでしょうか?

というか、指摘してあげることができるでしょうか?

私は、できない。

普通に考えれば、指摘してあげたほうがいいに決まっている。けど案外する人は少ない。 開きっぱなしの人は人混みを開きっぱなしのまま、誰にも指摘されることなく歩いていく。

自分もリュックユーザーなので、たまに開けっ放しのまま目的地についてリュックをおろして、自分のリュックが開きっぱなしだったことに気づくことがある。正直「誰か教えてくれよ」って思う。

逆に誰かに急に声をかけられて、「何やこいつ」みたいな顔していると、リュックが開いていると指摘され「うわ、恥ずかし」からの「ありがとうございます」となることもある。

そんな私が、人のリュックを指摘できない理由を以前考えた。
他人の、「何やこいつ」→「うわ、恥ずかし」の感情の流れを目の前で見るのが嫌なのだ。

その人がまともであろうが、おかしな人であろうがあまり見たい姿ではない。 声をかけた以上はリアクションをみないわけにもいかない。
たとえ最終的には感謝されるとしても。ましてやナンパと勘違いされたり、謎に怒るような人なら最悪だ。

私にはコミュニケーションにおいてちょっとめんどくさがりで、臆病なところがある。

この理由に思い当たってから、さらにリュックが開きっぱなしの人を見たくなくなった。

余計なことを思い出してしまうのだ。

知人逮捕の話

30年以上生きていると、「連絡を取ろうと思えば取れる知人が逮捕される」などという経験をすることがあった。

このときに連絡をする人もいれば、しない人もいると思う。私はできなかった。

その人はきっと自身の状況に少なからず動揺していただろう。
連絡をもらったら少し安心するかもしれないし、もしかしたら留置所に荷物が必要で、外で動いてくれる人が必要かもしれない。

私は逮捕されたことがないのでわからないが、おそらく連絡をもらって、気まずい思いもあるだろうが最終的には嫌な気はしないんじゃないかと思う。

それでも結局しなかった。そして多くの人もそうだったようだ。

だが、中には連絡を取って会いに行く人もいた。留置所に服の着替えを届けているらしい。なんて噂を聞いたりしたこともあった。
その人は逮捕された人の親友とか、毎日連絡をしている人とかではなかったと思う。おそらく私がその人の立場だったらなんやかんや理由をつけて連絡しなかっただろう。

結局私の人間性の問題なのだ。
他人の反応や気まずさが怖くて、対応するのがめんどくさい。 その程度の理由で少なからず世話になった知人との交流は断絶した。
その後不起訴になったが、詳細はわからない。

リュックが開きっぱなしの人に声をかけられない私は、逮捕された知人に声をかけることもない。
数年ほど前の知人の逮捕から、リュックが開きっぱなしの人を見るたびにそんなことを思うようになった。

連想=リンク

普段から、自己否定して生きているほどネガティブなわけではないが、リュックが開きっぱなしの人を見ると、毎回自動的にこの思考をたどるようになってしまった。

厳密にはこの2つのエピソードは、微妙に違う話な気もしているのだが。。

この問題は、「コミュニケーションにおける自身の臆病で怠惰な人間性」という共通項を通じて、「リュックが開きっぱなしの人」と「知人逮捕」のリンクが出来上がってしまったために起きている。

人間は物事を複数の面からとらえ、共通項を見出しリンクさせて思考している。

リンクベースにファイルを整理するObsidianの良さは人間の思考をシンプルに再現していることだと思っている。

(この記事はObsidian称賛記事です)

この思考をフォルダ分けで再現できるか

フォルダ分けできるだろうか?とりあえず2つの配置としては

  • リュック開きっぱなしの人
    • 感情
      • 自己嫌悪
        • コミュニケーションに対する臆病さ、怠惰さについて.md
  • 知人逮捕
    • 感情
      • 自己嫌悪
        • コミュニケーションに対する臆病さ、怠惰さについて.md

みたいなかんじだろうか。
でもこの2つを関連づけることってできるのだろうか、フォルダ分けの達人なら最適なフォルダ分けができるのか?私にはできない。例えばいくら共通項があるからといってこの2つの感情を

  • 感情
    • 自己嫌悪
      • コミュニケーションに対する臆病さ、怠惰さについて
        • リュック開きっぱなしの人.md
        • 知人逮捕.md

とするのは無茶苦茶だ。私はこのエピソードを自分の感情の中から、自己嫌悪の感情を思い出して想起するわけではない。 リュックが開きっぱなしの人を見て思い出すのだから親フォルダはリュック開きっぱなしの人がいい。

このフォルダ分けにはもう一つ問題がある、時間の流れだ。

フォルダ分けに必要な未来予知

最適なフォルダ分けに最低限必要な能力として未来予知があると思う。

私は知人が逮捕されるまで、自身の「コミュニケーションに対する臆病さ、怠惰さ」など意識していなかった。(いざ認識すると、リンクできるエピソードはいっぱいある)

  • 感情
    • 自己嫌悪
      • コミュニケーションに対する臆病さ、怠惰さについて
        • リュック開きっぱなしの人.md
        • 知人逮捕.md

つまり知人が逮捕されるまでこんなフォルダ分けはできないし、それまでリュック開きっぱなしの人.mdはここに置くことはできない。

仮に知人逮捕の未来を予知することができたとして、現在のフォルダ配置を現在の最適なフォルダ配置とするか、未来の最適なフォルダ配置とするか。

未来予知をもってしても、現在のフォルダ分けをいつの時期のための最適なフォルダ分けとするのかに最後まで頭を悩ませるだろう。結局は現在に合わせつつ、必要時改変するしかない。

フォルダ分けには無理がある。なんといっても、普段そんなものの考え方をしていないのだから。

フォルダの階層づくりは、リンクの強弱を擬似的に再現しているのだなと最近考えている。だから時間経過とともにリンクの強弱が逆転したり、あらたな強いリンクが生まれれば、フォルダ分けの大幅な改変が必要となったりする。

恋愛において「女は上書き保存、男はフォルダ分け」なんていう言葉があるが、男もフォルダ分けなどしていない。きっとリンクが切れにくいだけなのだ。人間はフォルダ分けでものを考え続けることはできない。

フォルダ分けのメリット(?) システムによる強制は必要か

基本的にはリンクのほうがいいと思っているが、一つだけフォルダ分けのメリット(?) があるとすれば、ファイルを作成した時点で何処かにファイルを配置することをシステムに強制されることだと思う。そして、その配置の合理性はシステムによって、ある程度は担保されるかもしれない。

ただ上述の通り、フォルダ分けは未来予知を持ってしても困難な仕事であり、強制されるのはデメリットなのだが、きっとその段階で新たな発想が生まれることはあるんじゃないかなと思う。ただしいずれ破綻する可能性は高いし、ファイルを作るのが嫌になるかもしれない。

実際、Obsidianを始めた当初、私はMOCを誤解しており、すべてのノートを親MOCから辿れるようにしようとした時期があった。それをはじめて2週間もするとノートを作るのが苦痛になっていった。 そして気付いた。これフォルダ分けと一緒やん、と。(なんなら一つのノートを何箇所にも配置可能なため、柔軟ではあったがフォルダ分け以上に面倒くさかった)

シンプルなリンクはその点簡単かつ柔軟で、私が満足する程度のリンクをつなげてしまえばノートの配置は完了する。システム自体はリンクの正確さや、過不足を一切保証しない。ここで強制されずにどれだけ頑張れるかが、自分のObsidianがアイデアの玉手箱となるツェッテルカステンとなるか、ノートの墓場となるかを分けるのだと思う。

TAKE NOTES!にもシステムはシンプルで柔軟にして、複雑なことは自分でしろと書いていて非常に納得がいったし、やはりObsidianはいいなぁと思った。

ノートの墓場と化しつつある自分のObsidian

最近まずいと思っている。
🧠ブログ開設! 開設理由ではObsidianの墓場化の責をすべてClaude codeに押し付けてみたが、当然ユーザーたる私が一番悪い。

もう自分のVaultになにがあるかもわからない。新しいAIにノートを書かせて、必要にならない限り読み直すこともない。ノートの数は2000を超えたくらいなのだが、このあたりで少し軌道修正しないと私も結局、カオスを迎え破綻する気がしてきている。

TAKE NOTES!を読み始めたときは、これをアナログでやっていたニクラス・ルーマンはやっぱり天才だし、頭がおかしいのではないかと思った。

ただ読み進めていくうちに、私に圧倒的に足りないのはノートを見返すことだと感じた。

そして見返すという動作においては、アナログの方が楽しいんじゃないかと思った。自分でシステムを構築し、自分を大学の社会学教授までおしあげてくれたカードの紙束をきっと彼は何度も見返しただろうし、パラパラめくりながら最適なカードの並びを考え、新たなカードの構想を思いつき最高の場所に入れていた。

彼のシステムにはフォルダ分け同様、配置が必要なのだが、システム自体が非常に柔軟でシンプル(数字を振るだけ)なので破綻を迎えず、むしろ配置を考慮する適度なストレスすら楽しめていたんじゃないだろうか。

ルーマンのツェッテルカステンは原点であり、アナログのくせに、リンクのメリットと配置の喜びを両立している。(しらんけど)

このあたりのシステムの見直しを、とりあえず直近の私のObsidianにおける課題としたい。

Obsidianはいいなぁ

ここまで読んでいただいた人なら、次にリュックが開きっぱなしの人を見つければ、この記事を思い出してくれるかもしれない。

あなたが声をかけられるタイプの人なら、なんの問題もないと思うが、私と同じタイプなら少し自分が嫌なヤツに思えるんじゃないだろうか。

それはきっと、この記事の記憶に、あなた自身の経験がリンクするからだ。その時どのようにして気分を立て直すかも自分のリンクの作り方次第。

私は自分で書いたこの記事を思い出しながら、やっぱりObsidianはいいなぁとおもって開きっぱなしのリュックを見ているだろう。